ついにドラゴンクルセイドをやめた。


時間を決めて操作しても、狩りと箱庭の手入れの他に、
アイテムを探し回ったり、仲間集めのためにメールしたりと、
ロスする時間は多すぎる。


そして何より、闘争心に火がつくと人格を崩壊させる。

そんな、ひとの姿を何度も見、また自分自身他人と比較して、
少し賢い行動が出来ると調子に乗る。

それは明らかに害が多く、本当の友人を探すような環境ではない。


友人になるわけでもないのに、碁や将棋の卓を囲んだりしない。
友人になるわけでもなく、ただ争い憎み合うなら意味がない…


人には闘争心が必要だと思う。

ある意味それが進歩を作り上げて来たとも言える。

しかし、囚人のジレンマのように、
持ちつ持たれつの中で競い合うからこそ、友情に発展するのではなかろうか。


最後に、資源地を取り合った相手に、「靴」を贈った。


相手が持っていなくて困っていたのに気が付いていたので、
最後に塩を送って幕を閉じたかったから。


さあ、今日からはどこに向かおうかなぁ…
しばらくは、勉強と一人遊びでもしてるかなw

何を持って「きちんと」と言うかは難しいところだけど、少なくとも悪循環という状況はあると思う。

最近、一日に2〜3回操作するだけのブラウザーゲーム、「ドラゴンクルセイド」をやっている。

これまでは上手く遊んでいたのだけど、
この週末は、かなり時間を取られてしまった。


いわゆる箱庭+戦争ゲームなのだけど、
箱庭部分で遊ぶ人が多いので、すっかり油断をしていた。


そこへギルド*1のメンバーから救援依頼。


一日目は、ギルド一丸となって立ち向かい、
格上の相手を蹴散らしたまでは良かったが…


戦争の終わらせ方が分からず、ずるずる延長戦へ。
ついには相手の最強メンバーが出てきてしまい全滅…


次の相手の出方も分からず、戦々恐々として二日目を無駄にした。

その経緯で分かったのは、

  1. 「情報収集する事」
  2. 「皆がやっている事は少なくとも理解しておく事」
  3. 「上手くなる方法を、たまには調べたり、考えたりする事」
  4. 「欲張りすぎず、地道に堅実に行動する事」


これは日常生活でも当てはまる当たり前の事だった。


自分たちは、戦争ゲームをやっているという事を忘れていた。
そこは、警察の居る都市ではなく、自活自衛の荒野なのだ。


そういう意味では良い勉強になった。
攻撃してきてくれてありがとうと言わなくてはならない。


こんどはもっと上手く立ち回るけどね。

*1:チームみたいなもの

Google Docsが便利だ

出始めの頃に触ってみた感じで投げ出していた、

GoogleDocsが、今触ってみたらすごく便利な事に気が付いた。


ワープロスプレッドシートEXCEL風)、プレゼンの作成と保管が出来て、

ツールを使えば一括ダウンロード(バックアップするため)が出来る。


当然インターネットにつながる環境があれば、どこからでも使える。


まあセキュリティを考えると、出先で気軽に使う気にはなれないが、

自宅と会社で資料を共通させる為に、メモリスティックを持ち歩く手間が省ける。


もう一つ、裏メニュー(なのか?)にNoteBookという機能があり、

そちらはWEBを貼り付けておける。

便利なサイトを見つけたら、そのままコピペして貼っておけば良いのだ。


他にもグループウェア的な機能もあり、スケジュールの共有なども行える。


昔感じていたWebでの情報収集の不便さが、

ブラウザーだけで、収集、管理できるようになって、むしろ便利になったように感じた。

四角いメロンについて

私にとって、論理性とは絶対的で、どんな難問も計算可能だと考えてきた。
もし、解けなければ自分の能力不足と考えていた。


しかし、実際には色々な問題の解決方法に、人間の感情が絡んでくると、
ジレンマに陥って答えが出ない事が多い。

私は、そういう問題にぶつかるたびに、勉強不足と考えて、
色々調べたり考えたりで答えを探してきたが、
今となっては、それが大いなる間違いである事が分かる。


一般的に脳というものは、論理的で理性的な臓器と考えられがちだが、
脳も他の臓器と変わらず、ましてや野生の動物とも同じで、
かなりアナログに出来ているようだ。


外から入ってくる刺激に対して、ダイレクトに関連する部分が活性化する。

その活性化した部分の組み合わせから、
答えが導き出されるのはコンピューター的だけど、
その途中には、感情とか、体調とか、好き嫌いとか…ありとあらゆる
人間くさい要素がダイレクトに入ってくる。


それは、
コンピューターが適切でない情報を切り捨てる事が出来るのとは、
まるで正反対な事をしている。


その自分自身と直結した部分の上に、意識という自覚している部分を乗っけて、
その狭い自覚という範囲の中で、
より最適な答えを導き出せるように、訓練して作り上げたのが、
理性であり、それを取り仕切るルールが論理性なのだと分かる。


それはまるで、放って置いたら丸くなるメロンを、
四角い箱に入れて、四角く育てる様な物ではないだろうか?


そして、理性の箱は脆く、訓練しても すぐにはみ出してしまうのだ。

平凡な人間=自分

自分だけに備わった特別な才能や、幸運という考え方は、
いたずらに人生を惑わせる…

言われてみれば尤もだし、自分はそんな事してないと思っていた。
しかし気が付くと、
どこからか幸運が舞い込まないかとただ待っていたり、
才能の有る無しを基準に、自分を評価してる事に気付く。


周りと大差無い平凡な人間が、生まれ持った環境と、
現在の持っている限られた物だけを頼りに、
どうやって人生を生きていくかと考えたとき、
初めて現実的な思考をして向かうべき方向が明らかになる
と言う考え方を聞くと納得がいった。


私は最近色々な意味で、
人よりスタート地点がだいぶ後ろだった事をやっと受け入れた。

そして、その受け取り損ねたバトンを取り戻す為にも、
無駄に時間を使ってしまった。


そんな自分にとって谷沢さんの本は、
取りこぼし部分をどう処理するかのアドバイスをくれる。
なぜなら、
取りこぼしを取り戻そうとしない事が正しいときもあるのだ。


今回読んだ(「疲れない生き方」谷沢 永一)では、
必要としていた殆どの取りこぼしを自覚できたように思う。


結局、一人きりでは生きていけない人類というものに生まれ、
他人を押しのけて飛び出せば嫉妬の炎に焼かれるのであれば、
周囲の人たちとやきもきしながら、
囚人のジレンマ』を演じている事を分かち合い、
助け合ったり歩調を合わせたりして
生きていくしかないのだなぁ、と考えるにいたった。


人生にはまるで自由なんて無い感じだけど、それが真実なのだろう。


だけど、人間には好き嫌いをもとに行動を決めてよいという自由がある。
それだけでも十分楽しめるのではないだろうか。


「嫉妬」は悪い事じゃない。
「好き嫌い」も悪い事じゃない。
「競争」も「派閥」も人間なのだからあって当然。

そんな当たり前のような事を、
きちんと理解できていなかったのかもしれない。

不機嫌やら不安やら…

世の中には、やたら不安がる人もいれば、意味も無く不機嫌に振舞う人も居る。
加藤 諦三の本を読んでいたら、両方とも根っこが同じである事が分かった。

「不機嫌になる心理」と「不安のしずめ方」の二冊だけど、
不機嫌は恐怖によって、不安は不安が元で現状にしがみつく事によって、
どちらも誰かの奴隷のような生き方をしている。

結局は、自分自身が人の基準に従って生きようとするからで、
発言力の強い人の生き方に振り回されてしまうらしい。


それは一方で自立の失敗でもあるらしく、自立して自分で考え、
自分で行動し、自分で責任を取る事への不安や恐怖から、

何も得られず、過酷なだけの「他人の模倣」という生き方を
やめられない弱さが一番の原因のようだ。


お猿の実験で、赤ん坊のとき母親のぬくもりを与えられなかった猿は、
怖がりで、新しいもの(事)になじめず、他の猿ともコミュニケーションが出来ない、
いわゆる引き篭もり的な反応をする事が分かっている。

もしかしたら、人間も記憶にない時代のぬくもり不足から、
色々な心身症的な反応を見せるのかもしれない… などと勝手に憶測した。

太宰治「人間失格」を読み始めた

なんか中高生の間で流行ってるらしいね。

でも自分も中学の時、読もうかと思った事があったから
時代はめぐってるだけなのかもしれない。

あの当時、技術書以外の読書力が無くて挫折したので、
改めて挑戦してみると意外と難解な単語が出てきたりする。

そして、他人の裏表を許せない一方で、
自分が一番、裏表を演じている事に自己嫌悪する主人公に
どこか共感した。

結局、他人を嫌うときって自分の事(やってる事かもしれんが)が
嫌いなんだなぁ…と反省する内容であった。